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大阪地方裁判所 平成元年(わ)4107号 判決

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中七〇日を右刑に算入する。

(罪となるべき事実)

被告人は、かつて個人で住宅増改築業を営んでいたころ雇用していたAの給料を支払わないまま放置していたが、平成元年九月二四日午前三時ころ、当時情交関係にあったCと共に、大阪府守口市〈住所略〉所在の飲食店「千扇」を訪れたところ、たまたま前記A及び同女の夫B(当時四九歳)と出会い、同店前で右Bから前記未払い賃金を請求されて同人と口論となり、その場は一応収まったものの、同日午前四時前ころ、Cと共に右「千扇」を出て、同町一丁目五九番地先有料駐車場内に駐車していた軽四輪自動車を運転して同所を出発しようとした際、右Bが被告人に降車を求めて同車前に立ちふさがり、更に被告人がこれに応じようとしないのをみて同車前部のボンネット上に飛び乗ったため、被告人は、その場から逃れたい一心で同車をそのまま発進させ、国道一号線北行き車線に入り、更に加速して時速約六〇キロメートルで同所から約二五〇メートル離れた同町三丁目一五番地先路上に至ったが、同人がなおもボンネット上に後ろ向きでしがみついたままであったことから、同人との紛争の結果自車助手席に同乗させていたCとの情交関係が同女の夫に露見することを恐れるあまり、この上はBを振り落としてでもその場から逃走したいとの一念にかられ、同人を前記速度で走行中の車上から路上に転落させれば同人が死に至るかも知れないことを認識しながら、あえて、同人を路上に転落させるために前記速度のまま約一七〇メートルの間にわたって同車を左右に蛇行させて運転し、同町三丁目三八番地先路上において、同人を自車から振り落として転落させ、よって同人に対し、加療約三か月半を要する頭蓋骨骨折、脳挫傷、クモ膜下出血、左第四・五中手骨骨折等の傷害を負わせたが、同人を殺害するに至らなかったものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(事実認定の補足説明)

被告人及び弁護人は、本件公訴事実について、被告人には殺意がなかったと主張しているので、当裁判所が殺意を認定した理由を示す。

前掲各証拠によれば、被告人が本件で蛇行運転を開始した時点以降における被告人運転車両の速度は時速約六〇キロメートルであって減速した形跡は全くないこと、被告人が走行していた道路の路面は舗装されており、被告人も当然これを認識していたと考えられること、被告人運転車両の前部ボンネットの高さは路面から六〇センチメートルないし七七センチメートルであって、被害者であるB(以下「B」と言う)は、ボンネット上に、後ろ向きに腰掛けるような姿勢で乗り、後ろ手でワイパーの付根部分を握っていたが、被告人は、その握り具合を確かめようとして動かしたワイパーといっしょにBの手も動くのを見て、Bが極めて不安定な状態でボンネットの上に乗っていることを十分認識していたことが認められる。そしてこのような状況のもとで被告人はBを振り落とすためにあえて蛇行運転を行い、四回めにハンドルを右に切った際にBを振り落とし、Bは路面に横転して全身をたたきつけられて判示の傷害を負い、特に後頭部には長さ約一〇センチメートルの線状骨折が生じており、死に至る危険性の極めて高い重傷であったこと、被告人はBを振り落とした後はそのまま加速して走行を続け現場から逃走したが、Bを振り落とした直後は動転して口もきけない有様であり、一、二分して被告人が同乗者のCに対して、「落ちたけど大丈夫かなあ、車も来てへんかったと思うけど」とBの安否を気遣う言葉を発したが、Cを家まで送り届けるまで、被告人とCは、Bのことが気にかかって、まともに話ができる状態ではなかったこと、被告人自身、Bが大怪我をしているのではないかと心配して、本件後しばらくの間は、新聞報道や、テレビのニュースを気にしていたことが認められる。

以上の事実によれば、被告人運転車両の速度、運転態様、路面の状況、ボンネット上のBの姿勢等の事実から客観的に判断して、被告人の蛇行運転はBの死亡という結果を発生させる危険性の極めて高い行為であったと認められるところ、被告人は、これらの事実に関し十分な認識を持ちながら、Bを振り落とすことを意図してあえて約一七〇メートルにわたり蛇行運転を継続したのであるから、犯行後の被告人の言動をも併せ考えると、被告人は、Bを走行中の車上から振り落とせば、Bが死亡する可能性があることを十分に認識しかつ死の結果を認容していたものと認められる。従って、被告人にはいわゆる未必の殺意があったということができる。

これに対し、被告人が走行していたのは、片側二車線路上の左側車線であり、蛇行運転を開始する際には、被告人は後続車がないことを確認していること、被告人はその左側車線内で蛇行運転をしており、しかもBを自車の左側に振り落とそうと考えていたことも認められ、右事実は、Bが転落した後、後続車に轢過されることを防ぐため被告人が一応の配慮をしていたことを示すものである。しかし、一般道路を走行中の運転車両から転落した者が死亡する場合としては、後続車両に轢過される場合のみでなく、路面にたたきつけられ、身体の枢要部特に頭部を強打することによる場合も通常予見できるものであり、被告人はその点について十分認識しながら、路面にたたきつけられる際に生じると考えられる衝撃による生命に対する危険の点については全く配慮していないと認められるのであるから、前記の事実は、被告人に未必的な殺意を認めた前記認定を左右するものではない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法二〇三条、一九九条に該当するところ、所定刑中有期懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中七〇日を右刑に算入することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件の被告人の行為は人命に対する極めて危険なものであること、幸いにして被害者の生命を奪うという最悪の事態は免れたものの、被害者の生命に一時深刻な危険が生じるような重大な傷害を負わせ、現時点においてもその症状は完治してはいないこと、本件の発端となった口論は被告人の不誠実な態度から生じたものであること、被告人は被害者を転落させた後、現場から躊躇することなく逃走しており、被害者を救護するような態度を全く示していないこと、被害者との間には示談成立の目途もなく、本件で受傷したことによって、今後の家計の維持の点で、被害者夫婦に多大の不安を与えており、被害者の処罰感情には厳しいものがあること等の事情からすると、被告人の刑事責任は重い。従って、被告人は車を発車させた当初の段階から殺意があったわけではなく、被害者の行動に狼狽した結果被告人が殺意を抱くに至ったと認められること、殺意もいわゆる未必の殺意にとどるまこと、発進しようとしている車のボンネットに飛び乗るという被害者の態度にも若干の無謀な点があったこと、被告人の母親がその蓄えの中から一五万円を支払い謝罪の意思を示していること、現在の被告人の反省状況及び被告人には道路交通法違反罪による罰金刑以外には前科がないこと等の被告人にとって有利に斟酌すべて事情を最大限に考慮しても、被告人を主文のとおりの実刑に処するのはやむを得ない。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官谷村允裕 裁判官植村稔 裁判官高見秀一)

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